終わりなき「やりきる」論争

ぼくは「やりきる」という言葉が嫌いだ。

「やりきる」ことで結果がついてくるという理論を持つ方々が意外と多いことに驚く。
やりきるってことは「やりかけたテーマにおいて、思いつくすべての策をどんなに重要度が低そうに見えてもやる」ということなわけで、ぼくからすれば、重要度が低いのであればそれとはまったく別のテーマに挑めばいいじゃない、って思ってしまうのだ。

「やりきる」のではなく「自分の時間を有効に使い切る」というほうがよっぽど結果につながる確率があがるんじゃないか、と。

例えば、
1の時間をつかえば1の結果がでるが、2の時間を使えば5の結果が出るものがふたつあり、自分に2の時間しかなかったら、ふたつ並行させるよりも、ひとつのものに2の時間を使ったほうが有効である。

しかし、逆に
1の時間をつかえば4の結果がでて、2の時間をつかえば5の結果がでるものがふたつあり、同じように自分の時間が2であったら、ふたつやったほうがよりいい結果につながることになる。

もちろん、人生そんな定量的に、しかも予測精度高く、結果を見据えることはできない。
ただ、ひとつのことに自分の時間を集中することだけがいい手段というわけではないよなーと思ってしまうのだ。

そういえば、
あるスポーツのレベルを高めようとしたとき、そのスポーツだけをひたすら練習するのがいいのか、ほかのスポーツに取り組んだほうがいいのか、という論争があると聞くが、その論争にも答えがみえていないのであれば、この「やりきる」論争にもしばらく決着はみえないだろう。

あとはどちらを信じるか、っていうだけなので、だからぼくは、やりきるという言葉が「嫌い」なのだ。