※このblogの説明※

タマリバの管理人がなんとなく考えていることの整理に使っています。
blog機能を使っていますが、記事は書いた順に並べているのではなく、内容の順番で並んでいます。
なので、真ん中くらいを更新したり、一番後ろにつけたり、とかく順不同です。
そんなよくわからないblogですみません。

※最終更新日:2017年4月16日

「場」について① なんのための「場」か

タマリバ的な発想でいえば、立ち上がりをサポートしたり、何かを教えたり、助け合ったり、っていうことよりも、「ライバルがいつづける」っていうことのほうが最終的に良い相互作用が生まれると思う。

そんな環境下で、相手に少しだけ手の内を明かしつつも、相手の手の内を聞き出し、横目で相手の状況を見ながら「やべえ」と思ってコソ練をしているときが、一番パワーが出る気がする。

必死に頑張ろうとしている人たちにはそういう場が必要なんだと思う。
「自らのために」そういう場の設計が必要なんだと思う。

「場」について② 「自らのため」の場をいかに設計するか

場をつくろうとすると、ふつうは中心から考えるものだと思う。
どういうテーマで、どういうコンテンツで、と。

けど、「自らのために」刺激をうけられるような場を設計しようとするなら、
場の提供者と場の参加者を分けてはいけないという意味で、中心を作ってはいけないんだと思ってる。

「ここは何をするべき場なんですか?」と聞かれても、答えられてはいけないんだと思っている。

中心なき状態にして、誰が正しいのかわからない状態にして、
互いに互いのやり口を探りあいながら同じ場に一時的にいるという状態が、
このままではだめだ、うかうかしてられない、何か新しいことをしないと、
と思わせてくれる場をつくりあげられるんじゃないかと思ってたりする。

個人的には、そう思い合える人が自分のまわりに増えさえしてくれれば
変化し続ける、という意味で、人生を楽しくできるんじゃないかというのが、自分なりの場の設計の考え方。

「場」について③ 場所と場の役割分担

ぼくのなかで「場」は、「場所」に依存しないことがものすごく大事なんだと思っている。
もちろん集まれる「場所」も「場」にとって大事なので、「場所」がいらないってことじゃなく、「場所」と「場」がうまく役割分担することが、「場」を設計する上で肝になる気がしている。

「場所」の役割、それは個人的には、関係をできるだけ広く拾い集められることじゃないかなと思ってて
例えば、水曜タマリバーで言えば、毎週水曜日に開催しているってことで、
毎回来るひとから突然ふらっと寄るひとまで、がっつり語ろうと思ってくるひとからご飯をたべにくるひとまで、
濃淡混在で、総和的に、最大公約数的に、ひとを集められるのが「場所」の最大のメリットだと思う。

そう考えると、そんな「場所」の役割から考えた「場」の役割は、
「場所」とうまく連携しながら、濃淡混在ではなく、「濃さ」にこだわってつくりあげるってこと、
それができるのが、「場」のメリットなんじゃないかなと。

なので、ぼくとしては、「場所」と「場」は、いっしょくたにしないほうがいいと思うのだ。

「場」について④ 場所と場とコミュニティの組み合わせ

「場」と「場所」のほかにもうひとつややこしい言葉で「コミュニティ」というものがあるけど、
ぼくのなかでは、コミュニティは単純に「人のつながり」と定義している。
あくまでぼくの個人的な定義だけど。

ただ、その上で、コミュニティには内側と外側があると思っていて、
場と場所の話(参考:「場」について③)に近く、どちらがいいというわけじゃないんだけど、
うまく役割分担しながら「いいコミュニティ」が出来ていくんだと思っている。

例えば、前職のOB会(6年目非公式w)をやってるけど、
たぶんOBのつながりって個々にチームが一緒だったとか今の仕事が近いからとか、
いろんな軸で集まったりするのもいいつながりになったりする。これがぼくにとっては内側。
けど、それだけじゃなく、OB会だから、という理由で年一回集まる機会があることで
その普段つながってる軸以外の集まりを拾うことでできる。これが外側。

なので、
内側のコミュニティづくりと場づくりは相性がいいし、
外側のコミュニティづくりと場所づくりは相性がいい、
ぼくのなかではそう思っている。

ちなみにタマリバでも、年二回比較的大きめの飲み会を開催する。
それはタマリバだけに閉じず普段会えてないいろんなつながりの方とこれを機会に会いたい、という意図もあったりなかったり。

「場」について⑤ 場所と場がそれぞれやろうとすること

ぼくのなかの場と場所の定義をつかわせてもらうと、
場所は総和をとろうとするもので、場は濃くしようとするもの、だと思っている。
(参考:「場」について③)

そう考えると、それぞれのやりたい方向性が違ってくるはずで、
ぼくのなかでは「足し算と引き算」
つまり、「場所」は足し算をやろうとし、「場」は引き算をやろうとするんだと思っている。

場所は足し算、
なので、できるだけ多くの人にきてもらうためにどうしたらいいかということに頭を悩ます。
タマリバの水曜タマリバーでは最近、「来た回数が多ければ多いほど序列が下がるんだよ」という冗談を気にしてよく言っている。
場所はどうしても長く続けていくと常連の空気が流れてしまうので、
ちょっとでも、初めてきた人が輪に入りやすい言い方ないかなと思って言い始めたんだけど、まあこれが正解かわからないが、こういう方向性で考えていくのが「場所」だと思っている。

一方、場は引き算、
どうやって濃くするかと考えるわけなので、積み上げるだけじゃなく、なくしていくことも必要になってくる。
ここで気をつけるべきは、「場」は人のつながりだけでつくられるものではないので
合わない人を出入り禁止にすれば、「場」が濃くなるわけではないと思っている。

ちなみにタマリバでやっている「楽しく生きる技術論」は「場」だと思う。
タマリバが主催しているわけではなく、回によって主催もファシリテーターも変わるし、ときには場所をかえてやったりする。
シリーズ物にしたりやめたり、定期開催にしたり期間を空けたり、自己紹介をフォーマット化したり壊したり、と、一回うまくいったやり方を踏襲するわけではなく、毎回場を濃くするためにやり方を考えるのが「場」だと思う。

今度、もう少し濃くするためには、と考えて、「楽しく生きる技術論」という名前も変えてみようと思っている。
違うなと思ったら戻すかもしれないけど笑、要は、こだわる部分は物理的にみえるものではないんだと思う。

ある人曰く1:人生の組み合わせパターン数

ぼくの知人の料理人が「風味の辞典」という百科事典のような分厚い本を読んでいた。
その本は、世の中の様々な食材と、ほかの食材や調味料との組み合わせを一覧化し、その組み合わせが合う理由や組み合わせによりどんな風味が生まれるものなのかが記述されたものだった。

まあ門外漢なぼくにとってはそんな本があることさえ驚きだったが、もっと面白かったのはその料理人が風味の辞典なる本を読んでいる「理由」だった。
その料理人曰く、一般的な料理本は、その書いた人の好みや常識などに依存していたり世の中の流行りを反映していたりして、ある程度の範囲に収束してしまうものなので味が想像できてしまう料理がほとんどになってしまうのだが、この本はそんな収束の軸を外し組み合わせをただただ列挙しているゆえ、意外な組み合わせや想像しなかった組み合わせをどんどん見つけることができるのだという。

なるほどなーと思った。
世の中いろんなものがありいろんなひとがいるわけだから、組み合わせのパターンなんて無数に存在するはずである。
けどぼくらは、好みや流行りでそのパターンの多さを見ずに、ありがちなパターンのみに収束して落ち着いてしまいがち。

もっと面白い組み合わせ、もっと自分らしい組み合わせがあるのかもしれない。
そんな視点で人生の冒険に出てもいいと思った。一度きりの自分の人生なのだから。

ある人曰く2:独特といういばらの道

先日学生と話したら、まわりの学生と自分の考えが折り合わない、と言っていた。
そして彼は、そのことを悩んでるのではなく、それが自然なんだと主張していた。
つまり彼は「独特である自分」を「自分」と捉えていたのである。

個人的には、独特であるということは素晴らしいと思う。
「かわいい」とか「そのひとらしさ」とかは、独特であることの裏返しから発生するものだと思っている。
なので、自分が社会と「違うと思った点」というのはそれらを引き出す鍵になるはずだと思う。

しかし同時に、独特さは社会との距離の話なので、閉じた社会があってこその定義だ。
社会が変わればその独特さは失われる可能性がある。
そして、自分が接する社会なんて、自分が行動すればするほど、日に日にどんどん大きくなるもので、
「独特さ」をアイデンティティーに押し出せば押し出すほど、「独特さ」を維持するのが難しくなる。

だから「独特さ」は、いばらに彩られた苦難の道なんだと思う。

ある人曰く3:コミュニケーション能力って

先日、ある会社の採用を担当しているひとにあったら「コミュニケーション能力の高い人材が欲しい」と言っていた。

けどコミュニケーション能力と言ったって、

・ひとをその気にさせるのが上手いひと
・ひとを巻き込むのが上手いひと
・笑わせるのが得意なひと
・自分のペースで話す空気に持っていくのが得意なひと
・すごいと思われるのが得意なひと
・端的に伝えるのが上手いひと
・全体を整理するのが得意なひと
・わかりやすく伝えるのが上手いひと
・物語のように伝えるのが得意なひと
・ポジティブな面を大きく膨らませて話すのが得意なひと
・ネガティブな面をするどく指摘をするのが得意なひと
・ひとに合わせるのが上手いひと
・ひとに共感してもらうのが得意なひと
・調和をとるのが得意なひと
・ひとをスムーズに動かすのが得意なひと
・みんながどう進めばいいかわかってる環境下で動くのが得意なひと
・みんながどう進めばいいかわかっていない環境下で動くのが得意なひと
・ひとから頼られやすいひと
・知識や事例を語るのが得意なひと
・自分の考えや背景を話すのが上手いひと

などなど
いろんな能力が混在して「コミュニケーションが上手い・得意」と呼ばれる。
分解すればどれもぜんぜん別な能力なのだが、コミュニケーションというやつは、くくられるのが「得意」である。

さて、巷で言われる「コミュニケーション能力が高い」ということはどういうことなのだろうか。
考えても考えても収束する気がしない。

ある人曰く4:自分は「何者」であるか

SNSの投稿をみていると、「サラリーマン」になるのか「起業家」になるのか、という論をときどきみる。
そういう論をきいて思うのは、ぼくは「何者」なんだろうか、ということ。

ぼくは
・個人事業主として仕事をしているものもあるし、
・個人で持っている会社で仕事を受けてもいるし、
・知人が立ち上げたベンチャーに入り、共同代表となったり、役員となったり、社員(パートタイム)になったりしているし、
・自分で考えた新規事業に仲間と一緒にトライしてみてもいるし、
・ボランティアで知人の活動を手伝ったりもしている。

そんなぼくは「何者」なのだろうか。

そしてよく、こうも言われる。
「あなたはなにしているひとなのかよくわからない」と。

さて、
自分は「何者」であるか定義したほうがいいのだろうか
まわりのひとに、よくわかられたほうがいいのだろうか

逆に、もしいま「何者」であるかはっきりしていたとしても
それにとらわれる必要はないんじゃないだろうか。

何個も自分に「何者」が紐付いていてもいいんじゃないだろうか。

これは意外と永遠のテーマだったりすると思う。

<人生を考えるということ>

今の世の中、いろんな人が、いろんなことを言う。
けど、人生いろいろ、人もいろいろ
「こうしたほうがいい」「こうするのが常識」
そういうハナシは、「今」を生きる「ぼく」の人生にもあてはまるのだろうか。

こういうモヤモヤがぼくの今の原点だったり、タマリバの出発点だったりする。

「人生」と「働くということ」

ぼくらは親元を離れれば多くは「働く」ことになる。
ほとんどの人は週5日「働く」ことが普通だろう。
さて、この「働く」ということと「人生」はどういう関係なのだろうか。

昔考えたことがあるのは
「働く」ということと「人生」が、相反しているのであれば、
週5日働いているひとは、残りの人生が週2日である。
つまり2/7しか人生を送っていないことになる。

20歳から55歳まで働くとする。(計算がしやすいからこの期間(笑))
そうすると実際は35年あるのだが、人生が2/7しかないのであれば、人生は10年しかないことになる。
ものすごくさみしいことではないか!

であれば、
「働く」ということと「人生」を相反させるのは気持ちが悪い。
できれば一体になっていてほしい。

そう思ってぼくは「働く」ということや「人生」について考え始めるようになったです。

働く「理由」

いま、働く理由というものが薄れているような気がする。
昔は「お国のため」みたいなところが少なからずあったと思うのだが、いまはそういうのもないわけで、
じゃあなんのためにと問われても、実はそんなにないんじゃないかと最近思う。

会社でやることは多くはビジネスだ。ビジネスというからには「お金を稼ぐ」ことになる。
けど、この「お金を稼ぐ」ということを考えると
ぼくは「会社」と「人」と「組織」というものが互いに相性が悪い気がしてならない。

会社というものが稼ぎ、会社に利益を残そうと思えば、
会社に所属する人には相対的にお金はまわらないようにしたほうがいい。
かつ、人数をあつめ組織になればなるほど、ひとりあたりの取り分は減る。
どうしても、「会社」と「人」と「組織」の間で取り合いになる。妥協点を探らざるを得ない。

そして、市場には一定のお金しかないわけで、ある会社が稼ごうと思えば、
市場の中の「他の会社」もしくは「他の人」から相対的に獲得しなければいけない。そこも取り合いだ。
となると、「稼ぐことが目的」と言ってもどこまで稼げばいいかって、無尽蔵に稼ぐわけにもいかないし、
どこかで無理がくることになる。

だとしたらそれは「会社」で「組織」を成して「働く」必要があるだろうか。

他方、
生きがい、とか、人生を豊かにする、とか言ってみることもできるかもしれないが、
もちろん一要素にはなるし、そう捉えることもできるけど、
会社というハコに、異なる人たちが集まり組織になって、生きがいや人生の豊かさがより増すのだろうか。

「会社」と「働く人」と「他の人」と「組織」との間で価値観が違えば、
互いにせめぎ合うことになりはしないだろうか。

「会社」と「人」と「組織」が一緒になって働く理由とはなんだろうか。

とりあえずぼくの中では結論はでていない。
考え続けるしかないと思っている。

けど・・・
ひとつ怖いなと思っているのは、
働くことで、働く理由が見えなくなってしまうこと。

もしかしたら、
理由を見なくていいようにするために、
心と身体を埋めているのかもしれない。

「一生懸命働く」という事で、心も身体も埋めてしまえば
「働く理由なんか考えずに、一生懸命働くことができる状態」にすることができる。

まさに道なき道を進む状態。完全に闇の中。
闇の中をもがき続けることはきつい。
けど、きついからこそ人生、そう思えてしまうのがミソなのかもしれない。

それは仕方がないことなのだ、と思ってていいのだろうか。
そういうものなんだと横に置いてていいのだろうか。

そろそろ考えてもいい時代なのかもしれない
個人的にはそう思っている。

働き方を考える1:「ぼく」は「考える側」でいたい

常々思う。
ひとは、「自分で考える側」と「与えられる側」に分かれる。
もしかしたら場合によったり環境によったりするかもしれないが、
ある瞬間でみれば、この2種類に分かれてると思う。

例えば、部屋が空調で寒かったとする。
温度変えていい?と声をかけ、自分で空調の設定を変えに行けばいいと思うのが「考える側」
寒くない?と言ったり、寒いそぶりをすることで、環境やその場のオーナーに対処を委ねるのが「与えられる側」

環境が自分を変えると思うのが「与えられる側」、
その中でも主導的に与えられようとすると、環境を選ぼうとする。
が、自分で「考える側」は、環境を自らつくろうとする。他者の環境からはエッセンスだけを抜き出し自分に活用する。

日常さまざまな場面で、多くのひとは、この2種類に分かれてるなあと感じる。

説明が難しいのだが、こう書くと、
考える側のほうがよくて与えられる側はわるい、と主張しているように見えそうだが、
それは単に「ぼく」が「考える側」でありたいと思っているゆえそういう書き方になってしまっているだけで
「すべてのひと」が「どちらでいるべきか」とはまったく考えてない。

ただただ
「ぼく」が「考える側」でいたいと思っているだけ
そう思っている。

働き方を考える2:答えがないという派

「ぼく」は生き方を考える上で、最も大切な価値観の分岐は、
「答えがあると信じる」か「答えがないと信じる」か、だと思っている。

世の中や社会に、働き方や仕事の選び方、家族との接し方、政治、経済、ビジネスなどなど
それらについて、「答えがある」と信じるかどうかで生き方が変わると思う。

答えというのは、
「こうするものだ」「こうなるのがベスト」「こういう状態は課題である」という発想の起点になるもので、
信じるひとたち「共通」のゴールもしくは判断軸のこと。

それらが、「分野や社会の全体において唯一無二のものである」と信じるなら、
その答えはその分野や社会に属する「どんなひとにもあてはまる」ということになる。

けど、「ぼく」は「答えがないと信じる」派。

つまり、答えは「ひとによる」と思う派である。
同じ分野や似たような社会にいたとしても、唯一無二のゴールや判断軸はないと「信じている」

「ぼく」がこういうやり方で成功した、と思っていても、
それは「ぼく」だったからであるし、「ぼく」にとっての「成功」だっただけなので、
ほかのひとにあてはまるとは限らない。そう信じている。

さて、
「答えがあると信じる」なら、その「答え」を学ぶことが生き方の軸になる。
「答え」を熟知するために知識を得て、その実践力を高めるために経験を積む。
それが「答えがあると信じる側」の生き方の指針になる。

一方、「答えがないと信じる」なら、生き方の軸は「自分」になる。
その分野や社会の中共通の「どう進むべきか」がないので、「自分がどう進むべきか」が唯一の指針になる。

なので、「答えがないと信じる」派が、重きを置いてやるべきなのは、
「自分とはどんなものか」ということを「考える」ことなのだと思う。

働き方を考える3:過去といまは似ているか

もう一つ、重要な価値観の分岐があると思う。
それは、「いまの世の中が過去のいずれかの時代に酷似しているかどうか」という点。

過去というのは、歴史の教科書で学ぶようなぼくたちが生きていないずっと昔の話から、
数年前とか、十数年前とか、という少し前の話まで含めていろんな時代がある。

もちろんそれらすべての時代を知ってるわけではないので、「いったん」なにを「信じるか」なんだと思うが、
「ぼく」としては「いったん」「いまの世の中は過去のどの時代にも酷似していない」と「信じよう」と思っている。

似ているという度合いをどこまでの範囲で考えるか、ということでもあると思うけど、
「ぼく」は、「いま」と数年前でもかなり異なっている環境だと「感じている」ので
なんとなくだが、どんなに箇所箇所似てそうな時代があったとしても「ぼく」は「似てない」と「感じる」
そういいそうだなと思う。

なぜそんなことを考えるかというと、
過去どこかの時代にいまと同じ状況があるとするなら、その時代を生きたひとの「事例」が
「いま」の「ぼく」が生きる「指針」になる可能性がある。

しかし、「ぼく」は「いまの世の中は過去のどの時代にも酷似していない」と思う派である。

なので、
「ある分野や社会における答え」も「どこかの時代の誰かが生きた事例」も、
「いま」を生きる「ぼく」の「指針」にはなり得ず、
それらは「参考」にはしながらも、「いま」の「ぼく」が考えるしかないのだ、という結論に至ってしまう。

それゆえ、「ぼく」は「考える側」でいたいと思う、ということになるわけなのだ。

働き方を考える4:カードの種類数

さて、「考える」といっても、なにもないところから自然発生することもないと思うわけで、
なにかしら「材料」が必要になると思う。

もちろん本やいろんなひとの事例は参考にはなると思うが、それらは「ぼく」ではなく、
本を書いたひとや事例の主人公である他人の行動である。

「ぼく」の材料であれば、「ぼく」が「どう行動してどうだったか」がいちばん役に立つはずだ。

カードゲームの持ち札じゃないけど、
ゲームの最終的な勝ち負けはおいといて、まずなにを出すか、と考えるためには、
できるだけ多くの種類の持ちカードがあったほうが心強い。

しかもルールなき無秩序なゲームだ。強弱なんてまったくないので、どのカードを出してもいい。
「どのカードを出してもいいよと言われた時になにを出すか」
これが、「ぼく」が「考える」ということなのだ。

何回も出し続けたら好みもでてくると思うが、
最初の方の数枚とかは、そのカードで何かが決まってしまいそうな恐怖もある。

であれば、カードを出す前に、カードの種類数を増やしておくのは、
自分の安心材料にもなる。

「ぼく」が「どう行動してどうだったか」

憧れたことにトライしてみたけど、こんな理由でだめだったとか、
好きだと思ってたけど、何回もやってみたら嫌いになっちゃったとか、
こんなこと普通のことだと思ったけど、やってみたらすごい求められて感謝されたとか、

そんなカードが増えてくれば、
じゃあ次のターンで、どんなカードを出すか、いやここはもう少し違う種類のカードを増やそうか、などの作戦も立てやすくなる。
そんなことを「ぼく」は考えながら働いている。

カードを増やす1:あこがれをつぶす

ぼくは成人してからこれまでに、
・コンサルみたいな考え方を身につけてみたい
・ベンチャー関わってみたい
・お店やってみたい
など、社会に流れる軽い薄い情報や雰囲気から、いくつかの無根拠な「あこがれ」を抱いてきていた。
なにか論理的に「やってみたい」とおもってるわけじゃなく、単に、かっこよさそう、とか、いいなーとおもってるレベルのものである。

しかし、そんな程度の軽い気持ちに、なぜかとらわれる。
そして「いつかはやってみたいなあ」という夢物語に仕立て上げてしまう。
呑みに行って酔いがまわれば、ついついそんな話をしてしまう。

そんな「やってみたいなあ」というあこがれに対して、
当時の、世間知らずの無鉄砲なぼくは、
やりたいと思うんだったら早めにやっておくかー、くらいの勢いで、
あこがれたことを何かしらの形でやってみてきたのだが、
その結果、「やりたいことやれてよかったね」以上の衝撃的な経験を得ることができた。

それは、
すべて「ぼくにはあわなかったな」と思ってしまった、ということである。

なんと、自分にあわないことなのに、「いつかはやってみたいなあ」という夢物語にまでしてしまっていたのだ。
たしかに、よくよく思い返すと、ぼくがあこがれてしまうキャラクターは、お調子者でおっちょこちょいで適当なぼくの性格の正反対の、クールで正確な行動をする人物だ。
自分にはない要素をもってるから「あこがれる」のである。
けど、キャラクターならともかく、人生の「いつかはやってみたいなあ」というものにも、自分にあわないものを選んでしまうのかと、われながらあきれてしまう。

ただ、ぼくは、
自分にはあわない「あこがれ」をやってみて
「ぼくにはあわなかったな」と思えた「カード」が増えた。
「さて本当に自分にあうものってなんだろう」と考えるきっかけを手に入れた。

なるほど。増やすべき「カード」とは、失敗モノでもいいんだなと思えた。
成功とか失敗とかどうでもよくて、結局、次に進むための考える材料が増えればそれでいいのだ。

「ぼく」が「どう行動してどうだったか」

そんなカードを増やすのに手っ取り早いのは、
「ぼく」がなぜか「あこがれてること」を、とりあえず、気軽に、やってみることなんじゃないだろうか。

カードを増やす2:進めてみる

もうひとつ、カードを増やすためにぼくがよくやっていることがある。

例えば、少し前に、「おつまみサイトをつくりたい」と思ってたことがあった。
ぼくは呑みが好きなので、日本全国のおいしいおつまみを特集するサイトがあったら楽しいなと思って、実際自分で作ったらどうだろうと思ってたことがあった。

それをいろんなところで言ってたら、
偶然にも、嬉しいことに、じゃあ一緒につくろうか、と言ってくれたひとがあらわれた。

サイトの骨格をつくってもらった。
おもしろそうなつまみを買ってきては食べて感想をサイトに掲載してみていった。

しかしここで壁があらわれた。
いっこいっこおつまみを買って食べては載せると言っても、
ひとりじゃ頻繁にできないし、やれる数に限界があるな、と。
そしてぼくは、飽きてしまった笑

つまり
「ぼく」じゃおつまみサイトはつくりあげられないし、続けられなかったのだ。

この手のビジネスアイデアではよくあることなのだが、
「これやったらいいじゃん」と思いつくことはよくある、が、
それを「だれ」が進めるのか、で、うまくいくかいかないかは決まるわけで、
「ぼく」がやってもうまくいかないアイデアは無数にある。

アイデアが思いついた時は、「これやったらすごいうまくいくに違いない!」と思ってしまうもので、
そのテンションゆえ、「だれ」がやるべきか、を見落としてしまうことがある。

けど、アイデアを思いつくことが悪いわけはない。
アイデアにはいろんなヒントがつまってるはずである。

だから「進めてみる」

そうするとその過程で、
「ぼく」に合わない要素と、そんな中でも「ぼく」らしい要素と、
ヒントが濾過されて分離されて見えてくる。

そしたら、「ぼく」らしい要素を再構成して新しい「ぼく」らしい「アイデア」に組み直せばいいわけだ。

どうせまた「ぼく」がやってもうまくいかないアイデアになっちゃうと思うけど
また進めてみて考えればいいのだと思う。

カードを増やす3:びっくり人間に会う

しかし、「進めてみる」と言っても、なかなか新しいアイデアは生まれてこない。
そういうときにやることと言えば「ひとと会う」ということである。

(ひとに会わなくてもアイデアが湧き出てくるタイプは個人的にも羨ましい方なので、であればぜひどんどん「進めて」みてほしいのだが、そういう方が次ぶつかるのは「一緒に進めるひとがいない」というところなので、そういう意味でも「ひとと会う」というのは必要だと思う)

さて、アイデアを生むために「ひとと会う」と言っても、
もちろん単にひとと会ってもアイデアは生まれてこないのが通常。

そんななか、個人的にアイデアが生まれるきっかけになるのは「びっくり」だと思ってる。
つまり、自分の考えになかったこと。意外なこと。
「そんな人生あるんだ!」「そんな考え方あるんだ!」「すげー面白いことやってるね!」などなど。
そんな「びっくり」があると、自分の頭が刺激をうけて、「なるほど、であれば!」って浮かんできやすい気がする。

なので、ひとと会って、そのひとの「びっくり」がないか聞きだすとよいのではと思っている。
自分と違うことをやってたりしないだろうか、自分と違う考えをもってないだろうか、
このひとの面白いところはどこだろうか、と。

けどなかなか会ったひとの「びっくり」を聞き出すのにも技術が要る。
そこで、そういったことを聞き出すために個人的におすすめなのは、
自分の「びっくり」を相手にぶつけてみるということ。

相手が「びっくり」するだろうなと思う自分のやってることや考え方をどんどんぶつけてみるのだ。
そうすると、相手もそのモードになってぶつけてくれるんじゃないかと思ってる。

ということで、カードを増やすためには進めてみる。そのためのアイデアはひとと会って「びっくり」をもらう。
そのために会ったときぶつけるための自分の「びっくり」を探しておく。つくっておく。
普段から、自分の「びっくり」を磨いておく必要がある。

だから、ぼくはそのために「働いてる」のではないかと思っている。

面白そうな面白い

「面白い」を見つける作業は地道だから受けが悪い。
見つけられた「面白い」は受けがいいから人を集められる。

「面白い」を見つけるのと、人を集めるのとはまったく異なる。
人を集めるのであれば、すでに見つけられた「面白い」を使うのがいい。

世の中は「人が集まる面白い」を「面白い」ということが多い気がするけど
ぼくは「人が集まる前」の「面白い」を見つけたい。

今と全く変わらない未来

多くの人が未来の進化に胸を躍らせている。

100年後
 ○○えもんとか○○すけとかがが生まれてて、
 透明な筒に包まれてる道路や、
 超高層にあるボール状の一軒家、
 自家用空とぶ乗り物とか、
 食べ物とかは全部自動でボタンを押せば料理になってでてくるマシンがあったり
 テレビ会議とかで全部仕事ができて、
 旅行をしながら日常の仕事をこなせるようになってたり
そんな図を世の中は想像しているのかもしれない。
そんな進化した未来を楽しもうと心待ちにしているのかもしれない。

けど、ぼくは、
今と全く変わらない未来を想像している。

変わるのが嫌とかじゃなくて、
変わらない方に賭けてるとかじゃなくて、

世の中が変わらなかった時なにをしていたいか、をまず考えたいと思っている。
それが一番大事な気がする。

夢とブレーキ

世の中には、「夢みる」機能と、「でもでも」機能が、数多くちりばめられていると思う。
この両方をバランスよく使わないと、人生前に進まないことが多い。

ドラマとか、映画とか、ゲームとか、芸能人とか、ミュージシャンとか、
そういう自分とかけ離れた世界に憧れることで、自分の未来に夢を見る。

でもでも、自分にはなれないし、無理だし、めんどくさいし、毎日が大変だし、で、
現実世界と怠惰な自分が、未来の夢にブレーキをかける。

ブレーキばっかりじゃ進まないけど、夢がなきゃ楽しい自分になれないし、
夢ばっかりみてても非現実的な妄想や次につながらない行動ばかりをとってしまうから、現実との差分をみる自分も必要。

「夢をみる」、それに対して「でもでもと思う」
どちらもないといけないけど、過剰な偏りもいけない。

言葉の均衡

格好いい言葉は情熱的、丁寧な言葉は記述的。
格好いい言葉は自己陶酔的、丁寧な言葉は自己否定的。
格好いい言葉はわかりやすい、丁寧な言葉はわかりにくい。
格好いい言葉は量で伝える、丁寧な言葉は量を絞る。

丁寧な言葉は格好よさが足りない。
格好いい言葉を丁寧に聞こうとすると疲れる。

格好いい言葉と丁寧な言葉の均衡点、
格好よく考えても丁寧に考えても見つからない。

スタンドアローン赤血球

「アイ・ロボット」という映画があるのだが、そのなかのワンシーンにぼくがものすごく気に入っているワンシーンがある。

ロボットが一般家庭に普及する世の中を舞台にした映画なのだが、主役のウィルスミス演じる警官が、ある事件の捜査のなかでつかまえることになったロボットに対し、
「おまえは人間にはなりえない。交響曲がかけるか?素晴らしい絵がかけるか?」と問いただす。

が、そのロボットはすかさず
「can you?(あなたはどうなのだ?)」と聞き返し、
警官は文字通りぐうの音もでなくなってしまうというやりとり。

なんという恐ろしい問いだろうか。
なんという最終魔法のような即死レベルの言葉だろうか。

人間。総体として戦えば、かなりの輝かしい実績をあげてきた自他ともに認める優秀な種族である。
が、しかし、鏡をみてそこにあらわれる髪がぼさぼさで乾燥で肌がかさかさになっているこいつは、
輝かしい実績も、優秀さのかけらも感じさせない。
そんなこいつと、人間を模してつくられた人形やらロボットやらとは、果たしてどちらが人間に近いのだろうか。

総体と個、これはぼくらの社会の永遠のテーマだと思う。
総体の力が個の集積以上の力をもつと信じられているのが社会、
そんな社会のなかで「個」とはいったいなんなのだろうか。

血液のなかの赤血球のように、外部に「個」として出て来ちゃいけないやつなのだろうか。
いや、様々な人間の集合体として「個」が形成されているという説もある。
だとしたら鏡にみえるこいつはこのあとどうすればいいのだ。

とりあえず「アイ・ロボット」のDVDでも借りに行こうかな。

収束ブラックホール

なんでも同じことを繰り返すと「収束」する。
ぼくはこれをブラックホールに落ちるイメージと呼んでいる。
それは収束しきってしまうとそれっきり発散することができなくなると思うからだ。

収束する理由はいくつかある。

自分たちがやってきたことを正しいと思いたかったり
これからまた新しいことをやるのがしんどかったり
自分たちはすごいやつだと信じていたかったり、思われたかったり、
ずっと守りたかったり、守られたかったり、

そうやって、その「どれか」によって、いまの自分たちに収束する。

ブラックホールに出会ったことはないが、イメージで言うと、
ブラックホールに巻き込まれないためには、相当な逆噴射をしつづけなければいけない。

だから思いっきり逆をしなければいけない。

自分たちがやってきたことは正しくないんだと思い、
常に新しいことを、しんどい思いをしながらやりつづけ、
自分たちはごくごく普通のやつなんだと思い、
いま守りそうになっていることを即時捨て続ける、

そうやって、その「すべて」によって、自分たちをいまに閉じ込めず、発散させつづけることができる。

収束するのが不幸せかどうかは永遠の課題だが、
不思議なことに、収束と発散は、同じ難易度ではないのだ。

汎用への収束と、専門への発散

大学時代、ゼミのリーダーをやってゼミのやり方をかえたことがある。
それまではゼミの全体会はただの発表会でしかなく、それぞれがサブゼミという小さなグループに分かれ、時間をかけた深い研究を目指す活動をしていた。
ぼくはそこに課題を感じ、汎用な能力も必要であるといういわゆる「T字型人材」を提案の軸とし、横串のプロジェクトをゼミでつくり、いろんなサブゼミの知見を生かしたプロジェクトを全体で行えるようにした。

なにがおきたか。
個人的な評価でしかないが、数年たった結果、サブゼミの色がほとんどなくなり、全体会の横串のプロジェクトのほうが濃くなり、ゼミにおける「深さ」がほぼなくなってしまったと感じた。

これはぼくの根底にある失敗体験だ。

先日このゼミの教授と久々にあったのだが、今大学に「問題解決人材」の育成が要請されているのだという。
ぼくはこれに一種の危うさを感じた。ぼくの失敗の大規模版が起きないだろうか。

なんてことを思ったが、大学や社会は「ぼく」なんていうゴミ粒にも及ばない極小の存在になに感ずるでもなく、定められた方向へ進んでいくわけなので、だからこそ、ぼくはタマリバという場で少しずつだけど声をあげてるんだと思った。

0から9への道があるとするならば。

0のときには、
どんなに語ってもイメージがわかないから多くの人は素通りするが、

1になると、
とたんに形が見え多くの人が賛否どちらかの立場をとるようになる。
うまく流れに乗れば協力者も現れ出し品質もあがっていくが、

6とか7になっていくと、
協力者よりも批判者のほうが増え、組織を組んで守りに入らざるを得なくなり、

あとは陣形をくんで戦術をねりつづけ、じりじりと8、9へと向かえるかが勝負、
という時代に入る。

楽しさ、苦しさ、合う、合わない、好き、嫌い、
たぶんどの段階にもあるわけだけど、
個人的には、必ずしも8、9に向かわなければいけないってこともないよな、といつまでも思っていたいと思う。

やりたいことがない、ということ

こういうことをやってると、「やりたいことにあふれている人」と思われることがたまにあるのだが、まったく逆で、ぼくは全然「やりたいこと」が浮かんでこないタイプである。

旅行に行きたいとか、美味しいものを食べたいとか、バンジージャンプをしてみたいとか、おしゃれバーにいってみたいとか、こういう仕事をしてみたいとか、そういった類の欲求が、いっくら考えてもでてこないのだ。

昔、ある先輩から、やりたいことを100個書きなさいと言われて、一生懸命考えたのだが、2つしかでてこなかった。
浮かんできたのは、「日々楽しい人と楽しく呑んでたい」ってことと、仕事は「その時でいいなって思ったことをその時々のいいやり方でやっていきたい」という2つ。

どっちも「今この瞬間に」というやりたいことではなくて、「ずっとやっていたいこと」だから、じゃあ今なにをすれば、と考えるためのわかりやすい道標にならないっていうのが悩みだ。

「やりたいこと」のなかで選んでいくことができないなら、しょうがないから、「やりたいことを探す」というステップが必要になる。
けど、ひとりで探しても見つからないから、いろんな人にヒントをもらう。
ヒントを集めればゲームと同じでだんだん何かは見えてくる。

そう、ヒントがあると見えてきてしまうものなのだ。
だから、「やりたいことがない」ということに対してあまり悲観的になる必要はなく、「やりたいことを探せばいい」という結論にいつも着地する。

あとは存分に迷えばいい。
意外と単純なハナシなのだ。

ゲームな人生

人生ってすごく「ゲーム的」だなと思う。
ゲームって、世界が与えられ、決められたルールの中で、ゴールに向かうものだと思うのだが、それらを、その時々で設定するもの、と考えれば、人生はものすごくゲーム的だと思うのだ。

ファイナルファンタジーの音楽をつくった植松伸夫さんが、ファミコン時代は今のゲームと異なり同時に3音しか重ねて出すことができなかったという制約があったのだけど、それが逆に工夫につながった、というハナシをある番組でしてて、あーそういうところも人生っぽいなーと思った記憶がある。

人生は自由だ、というひとが多いが、制約の無い人生なんて聞いたことがない。
自分の動ける世界なんてほんとちっぽけなもので、そんな小さな世界の中でも社会や組織のルールに縛られざるを得なくて、けどそんななかで日々なにもしないなんてことはできないから、一つずつ何かを達成しながら生きていくのが人生なんだと思う。

なんでもできる時代、なんてものは来ない。かならず制約がある。そんななかでどう工夫して面白いことをしていくか、って考えれば、けっこう気楽に人生を「プレイ」できる気がする。個人的にはそう思っている。

ダークサイドと夢の世界

ある人が「ダークサイド」というものに落ちる、という有名な映画があった。
闇の王のような存在に騙された、というストーリーではあるが、あの映画の世界を社会と捉えたときに、もうすこし分析してみると、社会との関係の中で、「自分が何を与え、何を奪い、何を与えられ、何を奪われているのか」がわからなくなり、「与えられることに慣れ過ぎてしまった状態」と「自分の過剰評価」とが相乗効果を生み、その人はダークサイドに落ちたのではないか、とぼくは思う。

しかし、この「与えられることに慣れすぎること」と、「自分を過剰評価すること」は、よくよく考えれば本人にとってはまったく悪いことではなく、むしろ気持ちいいものだ。与えらえることに慣れ過ぎず、自分を過剰評価せず、自分と社会との関係をバランスしっかり見極めることなんて苦痛でしかない。悩みしか生まない。冷静に考えればそう思う。

ダークサイドとか落ちるとかと言うから悪の世界のように演出されてるわけだけど、ほんとは夢の世界だ。快感に満ちた世界だ。ダークサイドとはなんと素晴らしい世界だろうか!

ところで、できれば余談にしておきたいが、ダークサイドという世界、ふと考えれば倦怠期に起こる喧嘩と非常に酷似してはいないだろうか。そう感じてしまうのはぼくだけだろうか。

関係の中のバランスを忘れ、
「なんでぼくはこんなにいいことをしているのにおまえは理解してくれないのかーー」
とバランスしていたはずのほかの情報を遮断し、「いやいや君はものすごく素晴らしいよ」と、欲してた通りの肯定だけを与えてくれる閉じたグループに落ちていく。いやいやぼくは経験したことないからそんなことは無いとは思うけど、聞いてる話は近いかなーと思っただけで。あくまで余談だけど、ね。

ダークサイドの快感と恐怖を感じながら日々過ごす。
そんなところが人生なんだと思ったりもする。

わからないこと

こないだ、自分の背中の写真をとってもらった。はじめて自分の背中の写真をみた。あまりきれいじゃなかったその背中の写真を自分のものだと頭で理解するのには、まだぼくの人生経験が足りないようだ。

そんなことはさておき、自分自身について知らないことがなんと多いことか。自分の心、というならまだしも、自分の身体でさえみたことがない部分が多い。ぱっと10枚写真をみせられてどれが自分のものでしょう、とか言われたら絶対正解しない自信がある。自分自身のことのくせに、だ。

しかし、われわれは自分自身のことを知っている気がしている。

いや、自分自身のこと、というものと、自分自身が本来どういうものか、というものは本来違ってしかるべきなのかもしれない。「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」とシーザーに言われたところで、「見たいと欲する現実」が自分にとっての「現実」なのだ。「見たいと欲する自分」が「自分」であり、見たことのないお尻の穴なんてものは、自分自身には含まれない。そう思ってたほうが理屈が通りやすい。

「わからないことはわからないままでいいのだよ」
わからないから存在しないはずのお尻の穴がぼくにそう言ってくれてるような気がする。

終わりなき「やりきる」論争

ぼくは「やりきる」という言葉が嫌いだ。

「やりきる」ことで結果がついてくるという理論を持つ方々が意外と多いことに驚く。
やりきるってことは「やりかけたテーマにおいて、思いつくすべての策をどんなに重要度が低そうに見えてもやる」ということなわけで、ぼくからすれば、重要度が低いのであればそれとはまったく別のテーマに挑めばいいじゃない、って思ってしまうのだ。

「やりきる」のではなく「自分の時間を有効に使い切る」というほうがよっぽど結果につながる確率があがるんじゃないか、と。

例えば、
1の時間をつかえば1の結果がでるが、2の時間を使えば5の結果が出るものがふたつあり、自分に2の時間しかなかったら、ふたつ並行させるよりも、ひとつのものに2の時間を使ったほうが有効である。

しかし、逆に
1の時間をつかえば4の結果がでて、2の時間をつかえば5の結果がでるものがふたつあり、同じように自分の時間が2であったら、ふたつやったほうがよりいい結果につながることになる。

もちろん、人生そんな定量的に、しかも予測精度高く、結果を見据えることはできない。
ただ、ひとつのことに自分の時間を集中することだけがいい手段というわけではないよなーと思ってしまうのだ。

そういえば、
あるスポーツのレベルを高めようとしたとき、そのスポーツだけをひたすら練習するのがいいのか、ほかのスポーツに取り組んだほうがいいのか、という論争があると聞くが、その論争にも答えがみえていないのであれば、この「やりきる」論争にもしばらく決着はみえないだろう。

あとはどちらを信じるか、っていうだけなので、だからぼくは、やりきるという言葉が「嫌い」なのだ。

頑張ってかいた文章

「頑張ってる」という言葉は、とても素晴らしい言葉なはずなのに、なんとも言い訳的香ばしさを感じてしまうのはなぜだろうか。「あの人ほんとうに頑張ってると思う」とだれかがだれかにいうのであれば比較的聞こえがいいが、「おれいま頑張ってるんだよね」とか言われると、とたんに嘘臭さが増すのはなぜだろう。

思うに、「頑張ってる」という言葉は、対象をぼんやりと評価するときの逃げの言葉なんだと思う。その人の「何がいい」とか「どこがいい」とかではなく、まるっと全体的に「いいよねー」と飾り付けるときに使われる言葉のような気がする。

本来自分ごとであれば、そんな総論あいまいな言葉をつかうよりも、「いまそれをこうしたいと思ってる」とか「これをいつまでにやりたい」とか、具体的な話をしたほうが周りの人に伝わりやすい。にもかかわらず、自分で自分のことに対して「頑張ってる」を使うときっていうのは、自分の「向かってる方向」「向かいたい方向」がわからないときの緊急避難場所として、使いやすい言葉なんじゃないだろうか。

そう考えると「頑張ってる」という言葉は、そのひとのことをあまりよく知らないけど輝かせたいときに、効果的効率的に便利な言葉であり、使ってもらえると嬉しくなる言葉だが、自分が自分に対して使うと、自らのことがわからないけど無理矢理輝かせようと努力する様に見え、滑稽に映ってしまうのではないかと思う。

と、ここまで書いてみて、まとまりのない文章になったなと思ったが、ここまで頑張って書いたので残しておこうと思う。

裏表

「わたし裏表がないオトコのひとがいい〜」とかおっしゃる女性に「ブス」とか「デブ」とかいうと怒られる。そういうことじゃないとか、そんなこと口にできる神経がわからないとか、ありえないとか、小一時間説教されるのがオチである。

もちろんそんなことは言わないし、もちろん守らなければいけない一線があることは十二分に承知している。それが社会であり、それが人間関係である、と。
心の裏で、つい出来心で、目の前にいるお方の欠点を過剰に表現する言葉が浮かんだとしても、それを口から表に向かって、言葉として実体化させてはいけない。それが社会である、と。

言ってしまえば、社会や人間関係もしかしたら自分自身でさえ、裏表の混合体でできている。裏と表、本音と建前、メリとハリ、本気と妥協。マーブリングのようにそれらが混ざり、相手にぶつけながら、いい塩梅を探し、適度な距離を見極める。それをある意味お約束にしているから、異なる性格の人間たちが調和をとって集まることができるのだと思う。

そうにもかかわらず、「裏表がないひとがいい〜」という女性には、きちんと認識してもらうべく、警笛の意味を込めて、ストレートボールをぶつけてあげたくなるのだが、度胸がないぼくは、今日もあいまいな言葉で濁しつづける。

SNSという場

SNSをやってると、たまに、SNSというのは自分に酔えるという意味で、呑み会がオープンになった場なんじゃないかと思うことがあるが、これはものすごく恐ろしい話だと思う。

呑み会がオープンになると何が起きるか。「昨日は酔っ払いすぎちゃった。ごめんね、やりすぎた分はわすれてよ〜。」という伝家の宝刀が振りかざせなくなる。そんなお約束がなくなるとおもうだけで、恐ろしくて1秒たりとも酔っ払うことができない。それはまったく呑み会の醍醐味ではない。
後輩には「奢ってやるよ」を盾に空虚な威厳を見せつけ、仲間には背伸びしまくった架空の人生論を語り、身の丈に合わない夢物語をアルコールにのせて披露することで、いい気分になれるというのが呑み会なはずだ。それを記録に残してどうする。

ゲームでいうなら、都合悪くなったらすぐリセットボタンをおせるのがいいところであり、そんなゲームをたまにするから、リセットの効かない「人生」というものにまた精神を投入できるというものだ。
リセットのできないゲームを、リセットのできない人生の傍で、精神をすり減らしながらやる、そんな苦行を強いてしまう可能性があるのが、SNSというやつなのかもしれない。
そんなことをふと思ったりする今日この頃。

怠惰なミカン

ぼくはミカンが好きで時々食べたくなるのだが、だいたいスーパーとかだと10個入りとかで買わなくちゃいけないので、後半だんだんだめになってきたりする。下の方においていたミカンの端っこのほうがくさったりすると、接してたミカンもやられていったりして連鎖反応がおきたりするので、毎回ミカンを買うときは、一気に食べる気合いで買わないと悲しい気持ちになってしまう。それがぼくにとってのミカンである。

ところで最近ふと思ったのだが、くさったミカンがあると隣のミカンもくさるくせに、美味しいミカンの隣にいてもそのミカンが美味しくならないのは、ものすごく理不尽じゃないだろうか。悪い連鎖反応があるなら、いい連鎖反応もあってもいいのではないだろうか。しかも悪い連鎖反応のスピードが速い。あ、くさってるとおもったら、隣も当然のようにくさってる。でも、「このミカンおいしい」と思ってもうひとつ隣のミカンも食べると、味が全然違ったりする。なぜなんだろう。

人間はもともと怠惰な生き物だそうだ。なので、怠惰なやつと生活をともにしていると、すぐ自分も怠惰になってしまっていったりする。けど、がんばってるひとや面白いことをしているひとの横にいても、なかなかすぐには自分も頑張れたり面白くなれたりはしない。怠惰はすぐに蔓延するが、面白さの広がりにはものすごく時間がかかる。

なるほど。ミカンも怠惰な生き物なのかもしれない。

ミカンと人間社会。
ほんと理不尽だ。

大事なことが混在する集団

いろんなひとと呑んでると、
大事にしていることってひとそれぞれだなーと感じる。

たとえば、
・現在価値を大事にするヒト、と
・将来価値を大事にするヒト

前者のひとは、いまのステータスに重きをおく。
自分もしくは相手が、何を知っていて、何をやっていて、どんな振る舞いをしているか、が話の焦点だ。

後者のひとは、現在から将来への流れに重きをおく。
現在がどこに自分を置き何をしようとしているのか、どんな将来に向けてどう動きそうか、今後何が大切になっていくか、が話の焦点だ。

難しいのは、こういった大事にしているものが違うひとと語ると、まったく噛み合わないということ。
もちろん大事にしていることが違うだけなので、そうじゃないものも大切なのはわかるが、
話の焦点が合わないと、相手の焦点をある側面で否定的にみなければいけないことがあるので、
見事にシンクロしない。盛り上がらない。

この例で言うと、ぼくは将来価値に重きをおいて話をしようとするタイプなのだが、
それゆえ、現在、価値があると思われてるものも、将来、価値がなくなるかもしれないという意見を持つ。
そうすると、現在価値に重きをおいているひとにとっては、
価値があるのになぜこのひとは価値がないというのだろう、という反応になってしまう。
結果、このひとは分析力がないだめなひとなのではないだろうか、となったりする。

逆もしかり。
現在価値に重きをおくひとは、将来の価値は現在の価値の延長にあると思っている。
現在の価値を減らして現在価値とは異なる将来に賭ける行動は、大きなリスクをかかえるという意見を持つ。
そうすると、将来価値に重きをおいているひとにとっては、
リスクをとらないこのひとは将来価値は高くならないだろうな、と思ったりしてしまう。

だから、
ひとの集まりって、こういう大事なことが異なるひとが混在しているんだなと思わなきゃいけないんだと思う。
生き方も。働き方も。