SNSという場

SNSをやってると、たまに、SNSというのは自分に酔えるという意味で、呑み会がオープンになった場なんじゃないかと思うことがあるが、これはものすごく恐ろしい話だと思う。

呑み会がオープンになると何が起きるか。「昨日は酔っ払いすぎちゃった。ごめんね、やりすぎた分はわすれてよ〜。」という伝家の宝刀が振りかざせなくなる。そんなお約束がなくなるとおもうだけで、恐ろしくて1秒たりとも酔っ払うことができない。それはまったく呑み会の醍醐味ではない。
後輩には「奢ってやるよ」を盾に空虚な威厳を見せつけ、仲間には背伸びしまくった架空の人生論を語り、身の丈に合わない夢物語をアルコールにのせて披露することで、いい気分になれるというのが呑み会なはずだ。それを記録に残してどうする。

ゲームでいうなら、都合悪くなったらすぐリセットボタンをおせるのがいいところであり、そんなゲームをたまにするから、リセットの効かない「人生」というものにまた精神を投入できるというものだ。
リセットのできないゲームを、リセットのできない人生の傍で、精神をすり減らしながらやる、そんな苦行を強いてしまう可能性があるのが、SNSというやつなのかもしれない。
そんなことをふと思ったりする今日この頃。